入学式の晴れ着

大正3(1914)年11月23日岡山市に生まれ、幼い頃から神戸で育った福冨芳美の洋服との最初の出会いは、小学校の入学式に母が着せてくれたツーピースでした。式服はもちろん小学生の普段着も着物という大正の時代、母が友人に頼んで仕立ててもらった最先端ルックの洋服は、物珍しさにジロジロ眺められて面映いものでしたが、日本女性の洋裁史とともに歩むことになった人生のエポックメーキングだったのです。
開港以来、外国人の居留地のあった神戸は、外国人向けの店が多く、洋裁の魅力に取り付かれた県立第一高等女学校時代、異国情緒漂う神戸トアロード、元町の店々からエキゾチックな感覚を吸収し、若い感受性と洋服づくりのセンスが磨かれていきました。格式ばらず何気ないお洒落をする神戸の外国人ファッションが、後年の服づくりに大いに影響を与えたといいます。
制服の女学生も家に帰ると着物で過ごしていた昭和の初期、女学校を卒業して着物を着る生活に戻ったものの洋裁への思いは断ちがたく21歳のとき上京して本格的に洋裁を学びます。神戸に帰るや「神戸ドレスメーカー女学院」を開校。昭和12年(1937)年3月、神戸に初めてできた洋裁学校でした。生徒数30人からスタートした学院は、秋にはそれが倍増するほどの洋裁人気。和裁などの花嫁修業とは別に、何か新しい息吹を求める女性たちの熱気が溢れていました。
服飾教育に生きる

昭和20年(1945)年6月の神戸大空襲で校舎が焼失。疎開先まで遠路訪ねてきた生徒の「洋裁の続きを教えてください」という言葉が教育一筋に生きようという決意を強くさせたといいます。翌年に学校を再開、驚いたのは入学志願者の数でした。洋服を着ることが新時代に生きる女性の象徴のように思われたのでしょう、教室は活気に溢れ、洋裁ブームといわれるほど、敗戦が日本女性の衣生活に大革命を起こしたようでした。
服飾教育に熱中の日々、長年の夢であった外遊を実現します。1年半にわたる留学で、若いニューヨーク、伝統のパリ、二つの異文化に啓発され、帰国後は、デザイナークラブの研究会に、ファッションショーにと精力的に活動しました。そして立体裁断技術とパリのエレガンスを生徒達にも直に吸収させたいとマダム・ソーゼを教員として招聘し、2年にわたって日本初の立体裁断指導を受けさせたのは、社会の要求に充分応えられる職業教育を目指そうとの信念からでした。その志は特色ある短期大学開設へと夢が膨らみます。
短大開設時から男女共学を強く望んだのも、社会人として世の中へ出ていくための教育の場にしたいとの思いが強かったからなのです。また、服飾の教育のかたわら昭和30(1995)年に、新たなデザインを改めて学びたいという旺盛な研究心から日本大学芸術学部美術学科に入学。神戸と東京を往復しながらの大学生活を終えて卒業したのは、46歳の時でした。
時代を先取りする豊かな識見とバイタリティー、磨きぬかれたファッション感覚、そして服飾教育に対する一途な探求心が、職業教育、生涯教育の新たな道を拓いていったのでした。
神戸ファッションを世界に

一方で、オートクチュール技術研究をはじめ、海外のファッション産業界への視察、日中服飾教育の交流など、積極的に世界のファッション研究に取り組み、神戸ファッション発展のため骨身を惜しまず活動しました。エキゾチックな雰囲気を持つ街・神戸に相応しいファッション産業こそ、神戸の文化を表現する創造手段であるとして、昭和47(1972)年、神戸市は「ファッション都市宣言」を行いましたが、その実現に向けて、専門家の立場でファッション都市づくりに尽力、神戸の服飾文化の振興に大きな功績を残しています。神戸ファッション界の先達として、平成4(1992)年、77歳で天寿を全うするまで持ちつづけてきた服飾への情熱は神戸ファッションを世界に発信しようとする私達の創造力の源となって、脈々と受け継がれているのです。

